たいめいけんのルーツは「西支御料理処」泰明軒
あたしが明治学院中学部を中退して、はじめて泰明軒本店に奉公したのは、昭和元年のことで、そのころ本店の初代の大旦那はご健在で、いつも自慢話の一つとして、こんな話をしてくれたもんです。
 明治天皇行幸のもとに、隅田川で水雷火試発と海軍の端艇競争があった折、大旦那は明治天皇にぶどう酒をつぐ役をおおせつかった。最初の一杯めは無事お役目を果たしたんですが、二杯めをご所望されたときには、恐懼感激したのか足が一歩も進まず、おつぎすることができなかったそうです。
 大旦那は畑安之助といい、最初は彫金師の内弟子に入ったんですが、大柄だったせいか職人にはなりきれないで、そのあと海軍省なんかに出入りする商人のようなことをやっていたようです。そのうち、先を見る目があったんでしょう、そのころ東京に七,八軒しかなかった洋食屋に目をつけ、明治十八年に京橋通りに店を出し、これが泰明軒本店の始まりになったようです。この店は「西支御料理処」の看板を出して西洋料理だけでなく、中華も出していました。たしか、東京で最初にシューマイを売り出したのはこの店だったという話です。そのせいか、明治二十七年の日清戦争の時は、敵国のものを売るってんで、焼き討ちにあったそうです。
 当時の洋食屋は、縁の下に鶏を飼っておき、注文が来るとしめて料理をしたため「牛刀で鶏をさいてる洋食屋」なんて川柳もあったとか。  また、宴会があると、クレソンを宮城のお堀端に摘みに行った話とか、いろいろ話はありますが、蒸焼きにしたローストビーフを井戸につるして冷やしているうちに落としちゃって、どうしても取れない。しょうがないから二人引きの人力車で麹町の宝亭さんに取りに行ったそうです。威勢のよい掛け声で飛ぶように走ってく姿を想像すると、いまどきのスポーツカーで行くより情緒があったんじゃないかと思います。
 肉の腐りをとめる薬があって、これを塗ってみたけどあまりきかなかった、なんて話も聞きましたが、これは大旦那があたしをからかったのかもしれません。肉をざるに入れて頭の上にのせて歩いていたら、とんびが着て、肉をさらってった、なんて話、本当なのかどうか。
 また、大旦那のおかみさんからは、中国人のコックさんにごま油をかけた熱いご飯をすすめられて困った話や、鹿鳴館開館の折、日比谷公園で打ち上げ花火があり、お人形や風船みたいなものが、空高く上がっては、ふわふわ泳ぐように空中に舞うのを竹ざおで取ったりしているうちに、これが本店の三階の窓から入って来て、それから店がとても繁盛したなんて話も聞きました。
 あたしが店に奉公にあがったころは、店は洋食屋というより、当時流行のカフェーのようになっていて、女給さんも七、八人いました。  ただ、他のカフェーと違って、食事の客が多く、民政党の代議士や、院外団の連中なんかが大勢食事に来てました。築地小劇場の小山内薫さんもよくいらしてました。
 昭和六年に独立するまで、本店で修行してたわけですが、奉公中に開店四十五周年記念があって、新川に支店の名前をちょうだいして今年で四十六年になるんですから、「たいめいけん」てのは、東京でも古い屋号の一つなんじゃないかと思います。